アルスノートとは?
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更新:08/09/30 >>09/12/18>> 12/04/01
■芸術の視点
 こころのよりどころとしての芸術.
古典的芸術が宗教的表現を様々な手法で試みながらも,独自の思索空間を構築したように,現代芸術は理性と情動をどのように位置付け,こころのよりどころとしているでしょうか?

 真偽を科学的に究明し,善悪を技術で凌駕し,美醜を芸術で極める. 
これは,情報集積の進んだ現代でこそ可能な夢想とも思えます.
 現代芸術とは,自己の感性と論理性を並進させ,更新される技術によって身体性を延長し,技能を客観的に鍛え,公開の自由の中で,他者の表現を受け止め解釈しながら,その感情的表象から時を経て省察し推敲を重ねた表現までを重ね合わせて披瀝する試みです.
  人間は,体験をとおした心の学習により,「直感」の背景に膨大なデータベースをもつようになります.「直感」は科学的視点を吟味し,技術化への理論的盲信を素直に抑制している場合があるものです. 留まるところ無く情報の累積を続ける科学と技術.もはや専門家と言えども,関連する全ての事象の把握は困難です.この無知への不安を和らげているのは,客観的視点の公表による検証と反証の機会の確保です.しかし,この性急な発展の中で,その機会を失うことが次々と起きています.微細な領域の膨大な情報とその条件分岐は,身の丈の状況認識との連続性すら確保が困難です. まさに直感とは思えないなげやりな暫定的認識が,新たな事態の予測を引き受け,錯覚や自己撞着を起こし,想定外だと言い逃れているのがこの無責任社会です.より確かなる直感を得て社会を変革するには,縦割りの知識に横糸を入れ,情動に左右されにくい知識の多元的連携が必要なのです.造形美術の世界には,その先駆けとも言える表現形式があります.色やかたちの固定観念から人々を解放させたフォービズムやキュビズムです.これらは,視覚認識のプロセスを見抜き,正に人間の情報処理を根底から揺さぶる創作表現として,鑑賞者の理性と情動を共に舞わせる画期的な脳内(抽象)絵画なのです.それは外界の多様な形態とは全く異なった,脳内においてのみ生じる直感的イメージです.画家は,長いデッサンの果てに,とうとう見えない対象をみごとに描けるようになったのです.

芸術的表現とは,表現する側も,享受する側も,自己の感性に準じたイメージが生み出す表象です.  造形芸術を科学や技術の視点から見つめるのは良いことですが,十分とは言えません. 何故なら芸術家は,それらの科学と技術によって新しい表象を創発し,新しい感性を追求るからです.それは鑑賞し享受する側にも,感性の更新をもたらします.なぜなら,旧い感性では理解不能だからです.新しい解釈が芽生え,眠っていたイメージが解放されるのです.
 脳,脊髄,末端神経のリアルタイムな協働は,科学的客観性を保持しつつ,技能と共に身体の延長を駆使し,感性に統御された固有の表現を生み出すわけですが,この「感性」を科学していては,恐らくタマネギの皮を剥くような結末となるでしょう.感動の固有性は,むしろ自己の存在そのものです.人間に生まれたからには,誰もが自問自答し,等身大に統合し,表現する命としての楽しみが備わっているのです.
この精神性を尊重せずして,他者に芸術的感動を呼び起こすことなどできません.
得手勝手な論理性は,感性を鈍らせ,作品自体の表現性を否定してしまいます.作品とは,作家から自立し,批評からも距離を保ったあなたへの呼びかけです.
一人の人間として押さえがたい芸術的衝動は,その時々の人々の尊厳のほころびを,精一杯つなぎ止めてきました.表現の自由とは,表現することから自然と生まれでるものです.

 現代の芸術的衝動には,造形的構成をめざす選択,組み替,統合,調和といった試みと共に,科学・技術による分割・分離・分析・合成による知見の統合があります.
   産業文化全盛のなか,芸術は,もはや天才とそれを称賛し所有するパトロンだけの特権的価値ではありません.

誰もが実直な論理性から加速し,離陸し,浮遊し,視野一杯で等身大の感動を見いだすには,
あなたの大いなる肯定,人間的勇気が必要なのです.

08/02/25, 10/01/15, 10/07/11,11/07/05, 12/2/9 isi

     
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